また、粟田焼の大きな特徴の一つとして、青蓮院御門跡の御用窯として栄えたことが揚げられます。この頃の粟田焼の箱書に『有職陶器』と書かれてあるのを見たことが有ります。今ではちょっと聞き慣れない言葉ですが、そこに粟田焼としての責任とプライドが感じられた気がしました。
江戸時代後期
この頃の粟田にゆかりがある陶芸家を揚げてみると、永楽家のスーパースター、十一代保全はその若き日々を粟田で修業していますし、二代目高橋道八の仁阿弥道八※3も五条に移る前は粟田に居りました。歌人、大田垣蓮月は手びねりの作品を窯元に持ち込んでいます。青木木米の窯は現在の地下鉄蹴上駅出口のあたりにあったようです。こういった人々が第二の京焼の黄金期を形成します。
そのほか二十戸以上の大きな窯元があり、日々多くの陶工が土を揉み、ロクロを回し、窯を焚いておりました。
明治〜大正
明治維新、それは粟田焼にとってもう一つ大きな波でした。公家や武家の御用焼き物師として栄え、雅な作品を産み出して来たこの町が見いだした新たな市場は、海の向こうの人々でした。薩摩焼の金襴手の技法に京都ならではの垢抜けした意匠を織り込んだ粟田焼は「京薩摩」として欧米で大変もてはやされました。当時のヨーロッパの美術界は沈滞期にありましたが、そこに大きな波紋を投げかけたのが、日本の開国だったのです。当時各地で盛んに開催された万国博覧会には六代目錦光山宗兵衛をはじめ粟田からも多くの作品が出品され、数多くの受賞記録が残っています。そういったことをきっかけに、彼の地では後のジャポニズム、アールヌーボーへのムーブメントへと展開してゆくのです。
開国当時非常にもてはやされた粟田焼でしたが、旧態依然としたデザインや装飾性の過ぎた飾り壺、貫入にシミが入り込む事による食器としての欠点などにより敬遠された時期もありました。貫入の出ない生地が研究されたのもこの頃です。
昭和〜平成
昭和二年の世界恐慌と二度の世界大戦は、海外に顧客の多くをもつ粟田焼にとって致命傷でした。私の祖父の会社、京都陶磁器合資会社はブラジルや上海に支店を持ていたのですが、それらはすべて大戦で没収されてしまいました。(損害額は当時のお金で2000万円だったそうです)。
ここで産業としての粟田焼は終わりをつげます。昭和二十年代末のことです。
その後、粟田の火を受け継いだのが伊東陶山さんや楠部彌弌さんなどの日展系の作家となられた方々でしたが、陶山さんが昭和四十五年、楠部さんが昭和五十九年にそれぞれ亡くなられ、火は完全に途絶えてしまっていたのです。
まとめ
粟田焼の特徴を尋ねられる事がよくあります。少し黄色味又は灰色を帯びて、細かい「貫入」と呼ばれるひびの入った様なうわぐすりの生地に、銹絵染付の様なあっさりした絵や、緑・青を基調に赤・紫等の色使いをした色絵ものが最もポピュラーです。
が、これまでお話しました様に、実際は時代によっては瀬戸ぐすり的なもの、信楽写し的なもの、薩摩様式の絵付、アール・ヌーボー調、はたまた個人作家の作品的なものまで様々です。そのすべてがここ、粟田の地で焼かれた焼き物なのです。
私の好きなのは銹絵染付の絵付のある江戸時代の粟田焼です。何とかいにしえの粟田焼の風格をそなえた作品をと願うのですが、なかなかうまくいきません。今日のものとちょっと何か、何かが違うのです。それは、土であり、窯であり、焼き方であり、・・・・・・・。でも多分、もっと違うのはそこに流れていた時間と空気と人の心ではなかったか・・・・・、私にはそう思えてなりません。
以上、四百年近い時間を大まかに見てみました。知れば知るほど粟田焼の特徴を一言でなかなか言い表せないことが、お判り頂けましたでしょうか?
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
※1『隔冥記』・・・かくめいき。本来の「冥」の字は「くさかんむり」に「冥」。
※2焼締陶器・・・今日『仁清信楽』と言われる場合があります。仁清信楽は、信楽風の焼締の風合いに京都らしい繊細な細工の焼き物が見受けられます。
※3仁阿弥道八が五条に移って築窯したのは粟田の株仲間的と言うか封建的な気質を嫌っての事、と言うことを先輩の陶芸家の方からお聞きしたことがあります。
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