西暦 |
和暦 |
粟田焼関係事項 |
他の焼物に関係する事項 |
茶道関係事項 |
一般事項 |
1502 | 文亀 二 | 村田珠光没 武野紹鴎誕生 |
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1516 | 永正一三 | 金春禅鳳ら奈良で「茶の湯」の記事『禅鳳雑談』 | |||
1522 | 大永 二 | 千利休誕生 幼名与四郎 のちに宗易 | |||
1525 | 大永 五 | 武野紹鴎、京都へ移る | |||
1526 | 大永 六 | 『宗長日記』『二水記』に下京茶湯者村田宗珠の記事 武野紹鴎、連歌の記録有り |
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1528 | 大永 八 | 武野紹鴎、三条西実隆を初訪問 | |||
1533 | 天文 二 | 『松屋会記』書き始められる | |||
1543 | 天文一二 | 古田織部、美濃に誕生 | 鉄砲伝来 | ||
1546 | 天文一六 | 織田有楽、誕生 | |||
1548 | 天文一七 | 『天王寺屋会記』書き始められる | |||
1549 | 天文一八 | 十四屋宗伍没 | |||
1554 | 天文二三 | 雲林院要蔵、御菩薩に築窯 | 一?軒宗金『茶具備討集』著す 『今井宗久茶湯日記書抜』書き始められる |
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1555 | 弘治一 | 武野紹鴎没五四才 | |||
1557 | 弘治三 | 初代雲林院(寶山)要蔵康光没 | |||
1558 | 永禄一 | 初代西村宗禅没 二代宗禅泉州堺へ移り住み土風炉制作を専業とする |
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1568 | 永禄十一 | 二代雲林院(寶山)安平康成没 | 九月 織田信長、足利義昭を奉じて入京 | ||
1573 | 天正 | 天正年間、四代雲林院(寶山)安兵衛、秀吉の命により大仏殿の茶碗を焼く | |||
1574 | 天正 二 | この頃千宗易、織田信長の茶頭となる | |||
1576 | 天正 四 | 蘭叔玄秀『酒茶論』著す。陸羽の『茶経』引用 | |||
1577 | 天正 五 | 長次郎、楽焼を始める | |||
1582 | 天正 十 | 安田源左衛門尉宗光、天目山の戦い敗戦を機に京都洛東清閑寺村に移り住み、農の傍ら作陶 | 本能寺の変 信長没 | ||
1583 | 天正十一 | 八月、秀吉、大阪城を築く | |||
1585 | 天正十三 | 三代雲林院(寶山)熊之助康為没 | 秀吉、禁中にて正親町天皇に茶を献ずる 利休が茶堂を勤める | 七月、秀吉、従一位関白となり、姓を藤原と改める | |
1587 | 天正十五 | 十月、秀吉、北野大茶会を催す | 九月、聚楽第が完成し、秀吉大阪城より移る | ||
1588 | 天正十六 | この頃、山上宗二が『山上宗二記』を書く | |||
1589 | 天正十七 | 長次郎没 | |||
1590 | 天正十八 | この頃『利休百会記』始まる | |||
1591 | 天正十九 | 黒谷で土器の製造始まる | 千利休没七十才 | ||
1592 | 文禄一 | 文禄の役(〜93) | |||
1594 | 文禄三 | 二代西村宗善没 | この頃千少庵、許され会津から京都に帰り千家を再興 | ||
1595 | 文禄 四 | 四代雲林院(寶山)安兵衛為宗没 | 音羽焼始まる | ||
1596 | 慶長 一 | 奥村次郎右衛門、朝日焼を始める 李参平渡来 | |||
1597 | 慶長二 | 慶長の役(〜98) | |||
1598 | 慶長三 | この頃三代西村宗全、堺から京都へ移住。後、小堀遠州の用命をうけ、「宗全」の銅印を賜る。以後九代まで風炉底に宗全印を捺用。 | 豊臣秀吉没 | ||
1600 | 慶長五 | 関ヶ原の戦い 英国、東インド会社設立 |
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1601 | 慶長6 | 千宗旦、春屋宗園より元叔の堂號を授く | |||
1602 | 慶長七 | 七月二六日「豊国廻廊之瓦修理申付粟田口瓦師甚三郎申者也」 『舜旧記』 | 「三条之今やき候者共・・・」(肥前佐賀藩主、鍋島勝茂が国許の家老鍋島生三に宛てた書状) |
西暦 |
和暦 |
粟田焼関係事項 |
他の焼物に関係する事項 |
茶道関係事項 |
一般事項 |
1689 | 元禄 二 | 六代安田源太郎(鍵屋)、粟田口中之町に築窯。後に桑原三位□□卿より錦光山の号を賜り、七代よりその号を用いる。 | 尾形乾山、御室に習静堂を建て移り住む 三月、乾山仁和寺門跡寛隆法親王に初めて御目見許される『御室御記』 七月、乾山、兄光琳と二條綱平邸へ挨拶に行く『二條家内々御番所日次記』 |
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1690 | 元禄 三 | 九月、乾山、独照性円とその弟子道澄月潭を習静堂に招く。独照より霊海号を授かる『直指独照禅師後録』『峩山稿』 |
この頃立花立山『南方録』編纂 裏千家四代仙叟宗室、今日庵に祖堂をつくり、利休百回忌を催す 山田宗偏、『茶道便豪抄』を刊行 |
||
1691 | 元禄 四 | 鴻池道億『鴻池家道具帳』編纂 遠藤元閑、利休・織部・遠州の茶を記した『茶之湯三伝集』著述 表千家五代随流斎宗佐没四二才 |
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1692 | 元禄 五 | この頃、京極家『萬御数寄道具御印帳』に「御室焼御茶壺壱ケ」の記載あり 四月、乾山、石川丈山を訪ね『過凹凸果記』(果は正しくは穴かんむりに果)を堂主三宅安宅に贈る『過凹凸果記』 九月、独照性円、習静堂を再び訪ねる『直指独照禅師後録』 この年乾山、二條綱平邸へ一回伺候する『二條家内々御番所日次記』 |
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1693 | 元禄 六 | 初代小林徳右衛門(鍵屋・錦光山)誕生 | 五月、二條綱平、二尊院墓参の帰りに習静堂を訪ねるく『二條家内々御番所日次記』 十月、二條綱平、習静堂を再訪『二條家内々御番所日次記』 この年乾山、二條綱平邸へ十六回伺候する『二條家内々御番所日次記』 |
『茶道全書』が刊行される 二代駒沢宗慶没 |
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1694 | 元禄 七 | 「一、粟田口焼△茶入△茶碗其外品々有茶入は土薬なり、かっこう唐物ひたち帯によく似たる物也」 『古今和漢諸道具見知鈔』 | 五月十八日、京極高豊没(四十才) 八月、乾山、福王子村鳴滝泉谷の二條家山屋敷を拝領する『鳴滝山屋敷拝領文書』 この年乾山、二條綱平邸へ六回伺候する『二條家内々御番所日次記』 直指庵独照性円没(七八才) この頃初代仁清没か? |
近世の美術全書『万宝全書』(全十三巻)刊行され始める | |
1695 | 元禄八 | 八月二十六日、「一、御室焼御香合十三京都より到来、以新蔵上之候へハ、事之外不出来御用ニ立かたく候間、何とそ為焼直可申旨被仰出ニ付、千宗室方よりも仁清二代ニ罷成下手ニ御座候旨申来候、とかく何方ニも能焼候もの承合申付候様ニ可仕旨御請申上候へハ、兎角御用ニ不相立候間、可相返旨被仰出ニ付、右之通宗室方へも申遣、可相返旨表納戸奉行へ申渡候、委細右奉行申、手前留書ニ有之旨也」『前田貞親覚書』 十月二三日、加賀藩の香合、御室焼から伊万里焼に変更『前田貞親覚書』 この年乾山、二條綱平邸へ三回伺候する『二條家内々御番所日次記』 この頃、京極家『高或御印帳』に御室焼の一括記載あり |
初代中村杯斎宗哲没 | ||
1696 | 元禄 九 | 八月、九左衛門、 江州南桜村の山を給せられ同山の土を以て陶器を造る 『京都御役所向大概覚書』 | 三月十日、「野々村清八自今以後貳人扶持可被下旨被出也」『御室御記』 三月、乾山、光琳に借金返済の督促と財産管理の勧告を認める『小西家文書』 四代樂一入没(五七才) この年乾山、二條綱平邸へ五回伺候する『二條家内々御番所日次記』 |
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1697 | 元禄 十 | 「一、 粟田口焼物師……九左衛門 一、 清水焼師……清兵衛、 一、御室焼物師……野々村仁清」 『茶湯評林大成』 | 五代西村宗筌没 「一、楽焼、茶碗のことく土あらく、薬黒きも赤きも有、又黒と赤きと飛入のいりたるも有事也、利休時代の古きハ高値なる物也」『茶湯評林』巻六「追加茶入之習」遠藤元閑編 十二月、乾山、兄光琳と共に妙顕 寺から借りた銀二貫目の利子を払う『小西家文書』 この年乾山、二條綱平邸へ五回伺候する『二條家内々御番所日次記』 |
裏千家四代仙叟宗室没七六才 | |
1698 | 元禄 十一 | 八月八日、「野々村清右衛門依御用自今朝来及深更帰宅」『御室御記』 九月七日、「焼物師清右衛門松木十本拝領申渡」『御室御記』 この年乾山、二條綱平邸へ七回伺候する『二條家内々御番所日次記』 |
江戸大火 | ||
1699 | 元禄 十二 | 二月二九日、「御門前清右衛門近内焼物仕候由御届来」『御室御記』 尾形深省、鳴滝に乾山窯開窯 三月八日、「御門前緒方深省御領内泉谷辺之屋敷ニ而瀬戸焼釜本仕売得仕度旨福王子村庄屋ヲ以代官中迄願書上ル」『御室御記』 七月朔日、「緒方深省来、内々奉願候薪拝領之旨、治部卿被申渡、難有奉存候旨也」『御室御記』 八月十三日、仁清、「仁清伝書」に署名し、陶法を乾山に譲る『陶工必要』 十一月二十日、「緒方深省手作茶碗始而献上之、号乾山焼云」『御室御記』 十二月二日、常修院宮(慈胤法親王・梶井宮)逝去(八三才) 十二月七日、「鳴滝村深省近日焼物仕由御届申」『御室御記』 この年乾山、二條綱平邸へ三回伺候する『二條家内々御番所日次記』 |
藤村庸軒没 常修院宮没 |
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1700 | 元禄十三 | 三月十一日、「森河内守ヨリ 御長命草盆(小道具モ蒔絵有之)在京殿進上之 尾形光琳ヨリ 御長命草入(十五自画) 同深省より 御香炉 自焼」『二條家内々御番所日次記』 この年乾山、二條綱平邸へ三回伺候する『二條家内々御番所日次記』 |
奥村家初代吉右衛門没 | 徳川光圀没 | |
光琳、法橋に叙任される『小西家文書』 この年乾山、二條綱平邸へ二回伺候する『二條家内々御番所日次記』 |
久須美疎安編の藤村庸軒の聞書、『茶話指月集』刊行 | ||||
1702 | 元禄 十五 | この年乾山、二條綱平邸へ四回伺候する『二條家内々御番所日次記』 | 赤穂浪士、討ち入り | ||
1704 | 宝永一 | 「宝永ノ頃ヨリ白色緑藍色柿色墨色等ノ画アリ 又焼締ノ器アリ薬ナシ」 『粟田陶器沿革』 | 裏千家五代常叟宗室没三二才 | ||
1706 | 宝永三 | 七月六日、真敬法親王(三菩提院宮)逝去(五八才) | 杉本普斎没七九才 二代中村汲斎宗哲没 |
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1707 | 宝永 四 | 富士山噴火 | |||
1708 | 宝永五 | 八月九日、加賀藩老臣本多政長没(七八才) | 武者小路千家二代文叔宗守没五一才 山田宗偏没八二才 |
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1709 | 宝永六 | 徳川綱吉没 | |||
1711 | 正徳 | 正徳年間、一文字屋(暁山)粟田に開窯 | |||
1712 | 正徳 二 | 六代安田源太郎(鍵屋)没 | 乾山、鳴滝窯廃窯 | 藪内流四代剣渓紹智没 | 徳川家宣没 |
1713 | 正徳 三 | 十二月、粟田口焼の陶工が登窯を築く為借金する 『雲林院寶山文書』 | |||
1714 | 正徳 四 | 「正徳四年〜享保三年に粟田口焼本窯并素焼窯所持十三軒、素焼窯所持七軒」 『京都御役所向大概覚書』 | 久須美疎安編纂による庸軒の茶話集『茶話指月集刊行 | ||
1716 | 享保 一 | 五代楽宗入没(五三才) 尾形光琳没 享保年間、海老屋清兵衛作陶する |
徳川家継没 享保の改革 |
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1718 | 享保 三 | 御蔭参り流行 | |||
1719 | 享保 四 | 相対済し令 | |||
1720 | 享保 五 | 江戸大火 江戸町火消しいろは組を設置 |
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1721 | 享保六 | 目安箱設置 | |||
1722 | 享保 七 | 小石川養病所設置 | |||
1723 | 享保 八 | 寶山湛海師、洛東粟田口に歓喜院を営み、九代雲林院安兵衛(茶碗屋)、師より『寶山』の号を贈られる。以後代々この号を用いる 九代雲林院安兵衛(茶碗屋)没 | |||
1724 | 享保九 | 六月二二日、京極高或没(三三才) | 『槐記』書き始められる。これは近衛家当主予楽院家熈(いえひろ)の述懐を侍医山科道安が記録したもの | ||
1726 | 享保十一 | 裏千家六代泰叟宗室没三三才 | |||
1727 | 享保十二 | 久須美疎安没 | |||
1730 | 享保十五 | 表千家六代覚々斎宗左没五三才 | |||
1732 | 享保十七 | 享保の大飢饉 | |||
1733 | 享保十八 | 七代安田源七宗信(鍵屋)没 | 裏千家七代竺叟宗室没二五才 | ||
1734 | 享保十九 | 一月二九日 「水指 仁清 塗蓋 茶碗 粟田口焼 黒』 (槐記) 高橋藤九郎(初代帯山)没 | |||
1736 | 元文元 | 近衛予楽院家熙没七十才 | |||
1737 | 元文 二 | 尾形乾山、『陶工必用(江戸伝書)』『陶磁製法(佐野伝書)』著 | |||
1738 | 元文 三 | 尾形乾山、栃木県佐野にて『陶磁製方』を著す 初代清水六兵衛誕生 |
宇治の永谷宗円、従来の煎茶に改良を加え、青茶の煎茶をつくる | ||
1739 | 元文 四 | 六代楽左入没(五五才) | 表千家如心斎、千利休百五十回忌にあたり、利休堂を建立 | ||
1740 | 元文五 | 千利休百五十回忌 | |||
1741 | 寛保元 | 六代西村宗貞没 | 表千家如心斎、裏千家一燈、川上不白ら七事式を制定 | ||
1742 | 寛保 二 | 公事方御定書制定 | |||
1743 | 寛保 三 | 尾形乾山没(八一才) | |||
1744 | 延享一 | 七代西村宗順没。この頃上京の古木町(現在の寺ノ内新町東入ル)へ移り住む | |||
1745 | 延享 二 | 正月十一日 「御境内御茶碗師九右衛門義近年身上甚以不勝手ニ相成……」 『本朝陶器攷證』 | 武者小路千家三代真伯宗守没五三才 藪内竹心の『源流茶話』『茶道霧の海』刊行 藪内流五代竹心紹智没 |
||
1748 | 寛延 一 | 和気亀亭、五条に築窯 | |||
1749 | 寛延 二 | 三月十七日、初代高橋道八(光重周平)〈松風亭空中〉、伊勢亀山に誕生 | |||
1751 | 宝暦元 | 表千家七代如心斎宗左没四七才 | 徳川吉宗没 | ||
1752 | 宝暦 二 | 十代寶山安平歿 | |||
1753 | 宝暦 三 | 奥田頴川、京都に生れる | |||
1755 | 宝暦 五 | 御茶碗師九左衛門(三文字屋)、将軍家御用焼物師の地位を辞す 二月、九代将軍徳川家重、岩倉山吉兵衛・錦光山茂(喜)兵衛に陶器調進を命ずる 「桃園帝ノ宝暦五年二月、九代将軍家重公粟田ノ陶□□検査而岩倉山吉兵衛・錦光山喜兵衛ノ両人ニ調進セシム」 『陶器辧解』 「三代茂兵衛延享年中箕裘ヲ継ク、時ニ宝暦五年将軍徳川家重公ノ命ニヨリ飲料ノ茶碗ヲ試製シテ之ヲ進ム、爾来年々調製スルヲ例トス」 『陶磁器業者ニ関スル取調書』 八月十八日 錦光山茂兵衛没 錦光山茂兵衛ノ墓、超勝寺門前町超勝寺にあり、名は柳仙、粟田の陶工なり、宝暦五年八月十八日歿す、孫宗兵衛ノ墓傍にあり略す」 『坊目誌』 |
表千家七代如心斎宗左門下の川上不白、江戸に下り千家流茶道の普及につとめる |
||
1756 | 宝暦 六 | 鍵屋、号を錦光山と改める | |||
1758 | 宝暦 八 | 「東町 同断 鍵屋源助 右之者共当時いづれも窯持にて茶器の類其外土瓶茶碗急須行平其の外世用之品々焼立諸国へ売弘め申候」 この頃、粟田焼従事者二十戸という 二代帯山与兵衛歿(七一才) | |||
1759 | 宝暦 九 | 二代鍵屋茂兵衛(錦光山)没 錦光山茂兵衛之墓、超勝寺門前町超勝寺にあり、 名は柳仙、 粟田の陶工なり 宝暦五年八月十八日没す、孫宗兵衛ノ墓傍にあり略す」 『京都坊目誌』 |
|||
1762 | 宝暦十二 | 「三条通今道町(中略)此辺粟田口焼とて陶器の名物有 南側に錦光山といふ御陶器師居宅有」 『京町鑑』 | |||
1763 | 宝暦十三 | この頃、初代高橋道八粟田口に築窯 | |||
1764 | 明和 | 「明和年中堆朱沈金唐草等ノ金銀彩色(又和欄陀写アリ)ノ法行レリ」 『粟田陶器沿革』 | |||
1765 | 明和 二 | 八代安田源七宗義(鍵屋)没 | 初代和気亀亭没 | 初代土田友湖没 | |
1767 | 明和 四 | 青木木米、京都祇園新地縄手町の茶屋「木屋」の長男として生れる | |||
1769 | 明和 六 | 十一代雲林院(寶山)文造没 | 八代西村宗円没 | ||
1770 | 明和 七 | 粟田口東町家屋敷三六軒のうち陶業に従事する者二一人、その所持する家屋敷の最高が三軒、その他百姓家五軒、青蓮院寺侍屋敷二軒
『粟田口東町割印沽巻改帳』 『雲林院寶山文書』 初代小林徳右衛門(錦光山)没(七八才) |
七代楽長入没(五七才) 十代善五郎(了全)誕生 |
松平不昧、『贅言』を著す | |
1771 | 明和 八 | 初代清水六兵衛、五条坂に築窯 | 一燈宗室『茶道浜真砂』著 裏千家八代一燈宗室没五十三才 |
||
1774 | 安永 三 | 八代樂得入没(三十才) | 杉田玄白『解体新書』著 | ||
1781 | 天明 | 「四世与兵衛ハ天明年間業ヲ継ク」 『陶磁器業者二関スル取調べ書』 | この頃、二代目近江屋平岡利兵衛、大和大路五条に陶器商を創業(後の萬珠堂) | ||
1782 | 天明 二 | 武者小路千家四代堅叟宗守没 | 天明の大飢饉(〜87) | ||
1783 | 天明 三 | 三代帯山与兵衛没(六二才) 三月十二日、二代高橋道八(光時)〈松風亭・華中亭・法螺山人・仁阿弥道八〉、誕生 |
|||
1786 | 天明六 | 徳川家治没 | |||
1787 | 天明七 | 寛政の改革始まる | |||
1788 | 天明 八 | この頃、奥田頴川、五条坂に築窯 | 天明の大火、千家類焼 | ||
西村了全、油小路一条へ転居 | |||||
1789 | 寛政 一 | 十二代寶山熊之助没 | 表千家卒(正しくはくちへんに卒)啄斎宗左・裏千家不見斎宗室、利休二百回忌茶会を開く 松平不昧『古今名物類聚』刊行始まる |
||
1790 | 寛政 二 | 四代帯山与兵衛、陶質瑠璃地青浮起模様堆朱沈金彫様諸器を製する | 二代清水六兵衛誕生(〜1860) | ||
1793 | 寛政 五 | 錦光山宗兵衛、薩摩の星山中併衛、川原芳工に錦手の技を伝授する | |||
1794 | 寛政六 | 上田秋成『清風瑣言』著 松平定信『茶事掟』著 |
|||
1795 | 寛政 七 | 九代安田源七宗楽(鍵屋)没 | 松平定信『茶道訓』著 | ||
1796 | 寛政 八 | この頃、青木木米粟田口東町に開窯。一文字屋の名義を譲り受けたと言われる | |||
1799 | 寛政十一 | 粟田口焼窯元(登り窯を所有する陶家)数八軒。その他焼屋中を構成していた陶家は十四軒
粟田口焼の窯元・職方が仲間取締り、新窯禁止を申合せる 「近年仲間猥に相成、弟子・奉公人等取締り悪敷、殊更右体之御触も在之候事故、此度窯元申合左之名前之内より年寄一人相極メ、仲間一統之取締いたし候、然ル上ハ向後新窯築候儀相成申間敷候事 寛政十一年末之十一月岩倉山吉兵衛、寶山安兵衛、錦光山喜兵衛、暁山忠兵衛、錦光山嘉右衛門、寶山原兵衛、帯山與兵衛、洛東山治兵衛、右従窯元中・仲ケ間中之取メ之儀御定被下候段一統承知仕候、依之連判如件 帯屋吉左衛門、高島屋佐兵衛、白木屋与兵衛、一文字屋喜兵衛、鍵屋源七、美濃屋源太郎、一文字屋佐兵衛、丸屋吉兵衛、一文字屋藤三郎、錺屋源兵衛、帯屋久太郎、錺屋伝兵衛」「粟田口焼職方仲間『定』」 『雲林院寶山文書』 |
初代清水六兵衛没(六二才)。文化八(1811)まで休窯となる | ||
1800 | 寛政十二 | 藪内家六代竹陰紹智没 | |||
1801 | 享和一 | 享和年間 保全、粟田口の陶器師岩倉山某に陶法を倣う 「十一世善五郎、宇名保全、常ニ陶器ヲ心懸ケ、享和年ノ頃父ノ了全ト対談シ粟田口ノ陶器師岩倉山某ニ陶器ノ製造ヲ倣フ」 『陶磁器業者ニ関スル取調書』 |
裏千家九代石翁宗室没 | ||
1802 | 享和 二 | 「左兵衛作からものうつし上品にてあたえも又貴し」「左兵衛は唐物をうつすに妙を得たるものなり」 『煎茶早指南』 | |||
享和 三 | 青木 木米、紀州にて製陶法を伝授する。 |
西暦 |
和暦 |
粟田焼関係事項 |
他の焼物に関係する事項 |
茶道関係事項 |
一般事項 |
1804 | 文化 一 | 青木 木米、『陶説』を翻刻する 四月二六日、初代高橋道八(光重周平)〈松風亭空中〉没(五六才) |
|||
1805 | 文化 二 | 青木木米、青蓮院宮粟田口御所御用焼物師を許される 「一、御境内東町陶工師茶碗屋木屋佐兵衛依頼、御立入并御用暖簾御免御礼御茶碗刷毛目、御香合蟹壱、扇子三本入一箱献上、御賄迄罷出ル」 『青蓮院日次記』 茶碗屋熊之助、帯屋与兵衛等青蓮院の出入を許される 「八月14日、御境内茶碗屋仲ケ間御立入願の通被仰付、往年錦光山江御預被成下候御用懸札一枚更に仲ケ間江御預の儀願申、并御紋付高張一張拝借願出、御聞済御礼東町茶碗屋熊之助・帯山與兵衛・錺屋伝兵衛号岩倉山・鍵屋嘉右衛門・今道町一文字屋忠兵衛・鍵屋喜兵衛号錦光山・東分木町茶碗屋安兵衛等也、閏八月朔日右何れも御礼申上、御香合、御水指献上」 『華頂要略』 |
|||
1806 | 文化 三 | 青木木米、金沢卯辰山、春日山に赴く(文化五年迄) | |||
二代高橋道八、青蓮院宮の御出入を許される | |||||
三代錦光山喜兵衛歿 | |||||
1807 | 文化四 | 川上不白没 | |||
1808 | 文化 五 | 十代鍵屋源七宗久歿 | 表千家八代卒啄斎宗左没 | 間宮林蔵、樺太探検(〜09) | |
1809 | 文化 六 | 水越與三兵衛、五条坂に築窯 | 速水宗達没 | ||
1810 | 文化 七 | 初代和気亀亭、肥前くに伊万里に赴く | |||
1811 | 文化 八 | 二代高橋道八、窯を粟田口夷町より清水坂大谷前西落町へ移す 「二世高橋道八ハ光時ハ父ノ業ヲ継グ、文化八年洛東粟田ヨリ五条坂ニ移リ和漢ノ古陶器ヲ摸シ」 (陶磁器業者ニ関スル取調書) 三代高橋道八(光英道三)〈華中亭・法橋道八〉誕生 |
奥田頴川歿 二代清水六兵衛、家業を再興する |
||
1812 | 文化 九 | 初代和気亀亭開窯 | |||
1817 | 文化十四 | 五代帯山与兵衛歿 | |||
1818 | 文化十八 | 十三代寶山安右衛門歿 | |||
文政 一 | 五代帯山与兵衛歿 | 尾形周平、岡田久太を伴い北摂桜井里窯へ赴く | 松平不昧没 | ||
1819 | 文政 二 | 十四代寶山熊之助隠居する (陶磁器業者ニ関スル取調書) | |||
1822 | 文政 五 | 青木木米、青蓮院の命により窯を築く 青木木米、青蓮院に参賀する 「一、御台所迄参賀献上物左之通 一染付瓢箪御根付壱 青木左兵衛 一、新宮様江献上物左之通 一染付瓢箪御根付壱 青木左兵衛 」 (青蓮院日次記) |
仁阿弥青蓮院に参賀する 「一、御台所迄参賀一黒楽御茶C壱 道八 一、新宮様江献上物左之通 一亀香合壱 道八 (青蓮院日次記) |
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1823 | 文政 六 | 洛東岡崎の土を五条坂陶家が買占め、粟田との間で抗争生じる 粟田今道町に鍵屋喜兵衛家、鍵屋源七家共同で築窯。窯場は喜兵衛家の土地、仕事場は源七の土地、費用は当時隆盛を極めていた一文字屋忠兵衛に連名で八三両借用 |
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1824 | 文政 七 | 五条坂で粟田似に製品が焼かれ、抗争生じる | 二代高橋道八、西本願寺本如上人のために露山焼を開窯 | ||
1825 | 文政 八 | 二代道八、仁和寺宮から「仁」と「法橋」、醍醐三宝院からは「阿弥」の号を受ける | 異国船打払令 | ||
1826 | 文政九 | 裏千家十代柏叟宗室没 | |||
1827 | 文政 十 | 仁阿弥道八、尾形周平、楽旦入、永楽保全、了全ら紀州徳川家の偕楽園焼に赴く 保全、藩主治宝より「河濱支流」の金印と「永楽」の銀印を下賜される |
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1828 | 文政十一 | 十一代鍵屋源七歿 | 仁阿弥道八、薩摩の重久元阿弥に金焼付を指導する | ||
1829 | 文政十二 | 十二代鍵屋源七、家督を弟久次郎(後久楽)に譲り、近江国大津市鍋屋町の勢田屋七兵衛家を継ぐ | 松平定信没 | ||
1830 | 文政十三 | 欽古堂亀祐「陶器指南」発行 | |||
天保 一 | 「天保年間ニ及フンテ人物画始メ製ス」 (粟田陶器沿革) | 初代松風嘉定、清水に開窯 | |||
1831 | 天保 三 | 四代錦光山喜兵衛歿。倅、市太郎(当時十二才)は岩倉山へ引取られ、幕府御用は岩倉山へ。 | 仁阿弥道八、讃窯を起す 頼山陽歿 | ||
岡田久太歿 | |||||
1833 | 天保 四 | 青木木米歿(六七才) 初代長谷川美山歿 |
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1834 | 天保 五 | 初代清水蔵六、和気亀亭に学ぶ九代楽了入歿(七九才) | |||
1835 | 天保 六 | 青木木米校訂の「陶説」刊行される | 武者小路千家六代仁翁宗守没 | ||
1836 | 天保 七 | 五代錦光山喜兵衛(四代の弟)歿 | 初代和気亀亭歿(四七才) | ||
1837 | 天保 八 | 欽古堂亀祐歿(七三才) | |||
1838 | 天保九 | 武者小路千家五代休翁宗守没 | |||
1839 | 天保 十 | 尾形周平歿 | |||
1840 | 天保十一 | 四代錦光山喜兵衛の子 歿(二十才) | |||
1841 | 天保十二 | 五条坂・清水・粟田口三所職方和順する 「先年ヨリ五条問屋方ニ而亀平と当所宝山・一喜殿等出会之節、何卒昔通職方一体ニ入魂致度旨毎度申出被居候処(中略)仲間一統相談之上承知致シ、同廿日安井前平野屋座敷ニ而五条職方一統出席、仲直り之盃いたし候、尤清水職方之義ハ先年ヨリ当所一体之義、此度右之趣相届ケ候処、大悦ニ而則三所之職方一統不残出会いたし和順ニ相成候事」(五条坂粟田焼出入一件録〔春窓庵所蔵文書〕) |
仁阿弥道八、家督を三代道八に譲り桃山窯を興す 十代西村善五郎(了全)歿 (七一才) 浅見五郎介、二代清水六兵衛の門に入る |
徳川家斉没 |
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1842 | 天保十三 | 二代長谷川美山、能楽人躰風雅を模写し絵付けする 十五代寶山熊之介(松平)歿 |
仁阿弥道八、隠居し桃山窯を起す | ||
1843 | 天保十四 | 岩倉山吉兵衛、粟田口東町に築窯 六代帯山与兵衛歿 |
仁阿弥道八、京都岡崎焼始める 初代真清水蔵六、五条坂に開窯 |
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1844 | 弘化 | 弘化年間永楽保全、鷹司政通より陶印を賜う | |||
1845 | 弘化二 | 二月二六日、四代高橋道八(光頼)〈華中亭道八〉誕生 九月一日、後の粟田の七宝作家、並河靖之、川越(埼玉県)藩士高岡九郎左衛門の三男として誕生(幼名留蔵) |
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1846 | 弘化三 | 藪内家七代竹翁紹智没 | |||
1847 | 弘化四 | 稲垣休叟『茶道筌蹄』著 | |||
1848 | 嘉永 一 | 嘉永年間に鍵屋源七(号久楽)鷹司関白殿下に召され、御前にて茶器をする 丹山青海、粟田中之町に築窯 |
四代清水六兵衛誕生 嘉永年間、京焼の地場問屋「五条焼物仲間」組織される |
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1851 | 嘉永 四 | ロンドンにて万国博覧会開催 真葛長造歿 |
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1853 | 嘉永 六 | 丹山青海、青蓮院宮が陶器物産会所を開設する際に同所の御用陶器師となる | 徳川家慶没 ペリー浦賀に来航 |
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1854 | 安政 一 | 十一代永楽保全歿(六十才) 十代旦入歿(六十才) |
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1855 | 安政 二 | 五月二六日、二代高橋道八(光時)〈松風亭・華中亭・法螺山人・仁阿弥道八〉、没(七三才) 並河靖之、並河靖全の養嗣子となり、青蓮院宮(のちの久邇宮)近侍として朝彦親王の仕える |
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1857 | 安政 四 | 寶山文蔵、青蓮院宮より泰平の号を拝領する | |||
1858 | 安政 五 | 鍵屋源七久楽、粟田口蹴上の一文字屋喜兵衛の窯を買取り、家督を譲り受ける | 徳川家定没 | ||
1859 | 安政 六 | 十二代鍵屋源七歿 | 井伊直弼『茶湯一会集』著 | ||
十三代鍵屋源七久楽 | |||||
1860 | 万延 一 | 二代清水六兵衛歿(七一才) | 表千家十代吸江斎宗左没 | 井伊直弼、桜田門外の変で横死 | |
1861 | 文久 一 | 七代帯山与兵衛歿 | |||
1862 | 文久 二 | 二代長谷川美山歿 □代岩倉山(錺屋)吉兵衛歿 |
ロンドン万国博覧会開催(日本正式参加) | ||
1863 | 文久 三 | 初代伊東陶山粟田口に開窯 | 初代清風与平歿 | ||
1866 | 慶応二 | 徳川家茂没 | |||
1867 | 慶応 三 | 初代伊東陶山、祇園近くの白川畔に『陶山』の号を以て店を開く | パリ万国博覧会に政府正式参加 | 大政奉還 |
西暦 |
和暦 |
粟田焼関係事項 |
他の焼物に関係する事項 |
茶道関係事項 |
一般事項 |
1868 | 明治 一 | ワグネル、長崎に来訪 | 戊辰戦争 | ||
1869 | 明治 二 | 丹山青海、紀州男山窯に赴く | 三代高橋道八、佐賀藩に招かれ京焼彩画法を伝える | 藪内流八代竹猗紹智没 | |
真葛焼(横浜)起る | |||||
1870 | 明治 三 | 舎密局設置される 五月十六日、五代高橋道八(勇之助)〈華中亭道八〉誕生 |
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1871 | 明治 四 | 廃藩置県 | |||
1872 | 明治 五 | 錦光山、帯山ら海外貿易の緒を神戸の居留地外人と開く 丹山青海、『陶器弁解』を著わす 第一回京都博覧会開催。錦光山宗兵衛、帯山与兵衛、高橋道八ら作陶を実演。丹山青海ら受賞 錦光山宗兵衛、丹山青海ら「職業出精ノ者」として京都府より表彰される |
十月、政府、翌年のウイーン万国博覧会への出品物を製作するために浅草に博覧会事務局附属磁器製造所(東京錦窯)を建設 | 裏千家玄々斎宗室「茶道の原意」京都府知事に提出 玄々斎宗室、立礼式を考案 |
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1873 | 明治 六 | ウィーン万国博覧会(オーストリア)開催。粟田五条陶工の名で有効賞胚牌を受賞。この時、丹山陸郎、政府参加派遣使に選ばれる 伊東陶山、宇治の朝日焼を復興する |
並河靖之、七宝製作を始める 7月、博覧会事務局附属磁器製造所(東京錦窯)閉鎖 8月、博覧会事務局附属磁器製造所の陶画工をそのまま引き継ぎ、河原徳立が中心となって東京深川に瓢池園、設立 |
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1874 | 明治 七 | □代岩倉山吉兵衛(文作)没 | 藪内家九代竹露紹智没 | ||
1875 | 明治 八 | 丹山陸郎研修より帰国。この時石膏型成形法・絵付用水金等を日本に伝える 第四回京都博覧会より丹山青海、高橋道八ら審査員となる。錦光山宗兵衛ら受賞。 五代錦光山(丸屋)長兵衛没(七七才) |
有田香蘭社創立 |
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1876 | 明治 九 | 錦光山、幹山が西洋風上絵具を採用する 第5回京都博覧会より審査員に寶山文蔵ら加わる 丹山青海、幹山伝七、金谷五郎三郎ら勧業場御用掛となる フィラデルフィア万国博覧会(アメリカ)開催。丹山青海、錦光山宗兵衛、辻長右衛門、帯山与兵衛ら出品 |
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1877 | 明治 十 | 第1回内国勧業博覧会(東京)開催。丹山青海ら受賞 鍵屋源七、粟田口梅宮町に貿易商店を開く 伊東陶山、墨画濃淡焼付法を発明 六代暁山忠兵衛(一文字屋)没。一文字屋廃業 二代岡田久兵衛没(六一才) |
西南戦争勃発。薩摩焼に影響 初代真清水蔵六歿(五六才) 第1回内国勧業博覧会(東京)開催。並河靖之、鳳紋賞牌受賞 |
裏千家十一代玄々斎宗室没 | 西南戦争 |
1878 | 明治十一 | ワグネル、舎密局に招聘される パリ万国博覧会(フランス)開催。丹山青海、並河靖之らが受賞 この頃粟田焼は幕末期の衰退状況から回復。全生産額の九割を輸出に向ける 八代帯山与兵衛歿 |
二代清風与平没 | ||
1879 | 明治十二 | シドニー万国博覧会(オーストラリア)開催。錦光山宗兵衛、高橋道八ら受賞 | 八月二日、三代高橋道八(光英道三)〈華中亭・法橋道八〉没(六九才) |
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1880 | 明治十三 | 三代清水六兵衛の次男龍三郎、帯山与兵衛家に養子として迎えられる | |||
1881 | 明治十四 | 第二回内国勧業博覧会(東京)開催。帯山与兵衛、錦光山宗兵衛ら受賞 | 三月四日、六代高橋道八(英光)〈華中亭道八〉誕生 | ||
1882 | 明治十五 | 丹山陸郎、研修のため再度渡欧(十九年帰国) | |||
1883 | 明治十六 | アムステルダム万国博覧会(オランダ)開催。錦光山宗兵衛、安田喜三郎、帯山与兵衛、丹山陸郎、伊東陶山ら受賞 | 三代清水六兵衛没(六四才) 三浦竹泉開窯 |
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十四代安田源七(鍵屋)没 | |||||
1884 | 明治十七 | 六代錦光山(丸屋)宗兵衛没(六二才) | このころ森村組(後のノリタケカンパニー)、東京の瓢池園と絵付けの専属契約を結ぶ | ||
1885 | 明治十八 | イギリス万国博覧会開催。丹山青海、帯山与兵衛ら受賞 | |||
1886 | 明治十九 | 粟田に艮組合設立 | 五条清水に巽組合設立 五条坂に陶磁器蒐集場を設置 |
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京都陶器会社設立 | |||||
1887 | 明治二十 | 丹山青海没 | |||
三代長谷川美山没 | |||||
1888 | 明治二一 | バルセロナ万国博覧会(スペイン)開催。安田源七、錦光山宗兵衛、帯山与兵衛、伊東陶山ら受賞 | |||
1889 | 明治二二 | パリ万国博覧会(フランス)開催。帯山与兵衛、錦光山宗兵衛、楠部千之助、伊東陶山、安田源七、高橋道八ら受賞 十六代寶山文蔵(泰平)歿(七十才) |
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1890 | 明治二三 | 幹山伝七没(七十才) | |||
1891 | 明治二四 | 伊東陶山、本窯色絵釉料を発明 | 武者小路千家七代全道宗守没 | ||
1892 | 明治二五 | ワグネル東京にて没 | |||
1893 | 明治二六 | シカゴ・コロンブス記念万国博覧会(アメリカ)開催。丹山陸郎、伊東陶山、錦光山宗兵衛、安田源七、帯山与兵衛、高橋道八ら受賞 | |||
1894 | 明治二七 | 京都陶磁器商工組合結成。(初代組合長、錦光山宗兵衛)艮組合、巽組合廃止 | 日清戦争勃発(〜九五) | ||
帯山与兵衛家廃業 | |||||
1895 | 明治二八 | 第四回内国勧業博覧会開催。安田源七、伊東陶山ら受賞 | |||
1896 | 明治二九 | 京都陶磁器試験場設立(五条坂) 錦光山宗兵衛、伊東陶山、安田源七、高橋道八ら商議員となる 鍵屋源七、鍵屋喜三郎、輸出向陶磁器の製造販売を行うために京都陶磁器合資会社を設立 |
並河靖之、帝室技芸員に任命される 十二代永楽和全没(七六才) |
益田鈍翁、東京品川御殿山の自邸にて「大師会」をはじめる | |
1897 | 明治三十 | 錦光山宗兵衛、この頃より輸出向日用品陶器を制作 | 七月二六日、四代高橋道八(光頼)〈華中亭道八〉没(五三才) |
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丹山陸郎歿(四四才) | |||||
1898 | 明治三一 | 武者小路千家八代一叟宗守没 | |||
1899 | 明治三二 | 伊東陶山、緑綬褒章を受賞 | 京都陶器会社解散 | ||
1900 | 明治三三 | 諏訪蘇山、錦光山工場に招かれ九谷より移る パリ万国博覧会開催。アールヌーボー様式が登場。錦光山宗兵衛、宮永東山ら視察。錦光山宗兵衛、宇野仁松ら受賞 |
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1901 | 明治三四 | 宮永東山、錦光山工場の顧問として迎えられる | |||
1902 | 明治三五 | 十一代楽慶入歿 | |||
1903 | 明治三六 | 第五回内国博覧会(大阪)開催。錦光山宗兵衛、アール・ヌーボー様式の花瓶を出品 伊東陶山、錦光山宗兵衛、宮永東山ら「遊陶園」を結成 |
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1904 | 明治三七 | 京都市陶磁器試験場、粟田陶器の改良に取り組む | 日露戦争勃発(〜05) | ||
1905 | 明治三八 | リェージュ万国博覧会(ベルギー)開催。錦光山宗兵衛ら受賞 | |||
1906 | 明治三九 | 河原徳立、親戚の実業家広瀬満正と共同経営で京都瓢池園製陶所を東山区三条通白川橋東入八丁目西小物座町三一二番地に設立 |
岡倉天心の『THE BOOK OF TEA』がニューヨークで出版される | ||
1907 | 明治四十 | 伊東陶山ら佳美会を結成 伊東陶山、錦光山工房を退き独立。始め五条坂にて製陶。その後三条白川筋に店舗と工場を移す この頃伊東翆壺、二代伊東陶山の門に入る |
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1910 | 明治四三 | 十一月二一日、七代高橋道八(光一)〈華中亭道八〉誕生 | 表千家十一代碌々斎宗左没 | ||
1912 | 明治四五 | 伊東陶山久邇宮邦彦殿下より「陶翁」の号及び金印、銀印を賜る | |||
1912 | 大正 | この頃より京都市東山区蛇ケ谷辺りに開窯始まる。 | |||
1913 | 大正二 | 農商務省第一回図案及び応用作品展覧会開催。伊東陶山、河村蜻山、板谷波山、清水六兵衛、河合榮之助ら出品 | 徳川慶喜没 | ||
三条通の東山線以東南側の拡張工事行われる | |||||
1914 | 大正三 | 第一次世界大戦勃発(〜一八) | |||
1915 | 大正四 | 河村蜻山、粟田から伏見深草に移り築窯 二代安田喜三郎歿 |
初代三浦竹泉没 十一月二二日、五代高橋道八(勇之助)〈華中亭道八〉没 |
京都鷹ケ峯光悦寺にて「光悦会」開かれる | |
1916 | 大正五 | 河原徳立没 | |||
1917 | 大正六 | 伊東陶山、諏訪蘇山、帝室技芸員となる | 裏千家十二代直叟宗室没 藪内家十代竹翠紹智没 |
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1918 | 大正七 | 伊東翠壺、二代伊東陶山の婿養子となる | |||
1919 | 大正八 | 京都市陶磁器試験場を国立陶磁器試験場に昇格 | この当時の京都の陶磁器関係職工数2430人 この頃、蛇ヶ谷辺りの築窯12基。素焼窯数40基、ロクロ200台を越える |
米騒動 | |
1920 | 大正九 | 楠部彌弌、河合榮之助、河村己多良、八木一艸、荒谷芳景、道林俊正らと共に『赤土』結成 初代伊東陶山、洛東山科鏡山に築窯。初窯の三日後に歿する(七六才) |
四代清水六兵衛没(七三才) | ||
1922 | 大正十一 | 九代帯山与兵衛歿 | 初代諏訪蘇山没 | ||
1923 | 大正十二 | 夏、清水焼労働組合による争議 | 裏千家十五代鵬雲斎宗室誕生 | 関東大震災 | |
1924 | 大正十三 | パリ万国博覧会(フランス)開催。楠部彌弌ら受賞 | 夏、清水焼労働組合による争議 | 裏千家十三代鉄中宗室没 | |
1925 | 大正十四 | 夏、清水焼労働組合による争議 | |||
1927 | 昭和二 | 七代錦光山宗兵衛、貿易振興に尽し緑綬褒章を受賞し、従六位に叙せられる | 並河靖之没(八三才) | 岡倉天心の『THE BOOK OF TEA』が『茶の本』として日本語に翻訳される | 第一次金融恐慌起こる |
1928 | 昭和三 | 七代錦光山宗兵衛歿(六一才) | |||
1929 | 昭和四 | 世界恐慌 | |||
1931 | 昭和六 | 伊東翆壺、五条坂に築窯 三条通の東山線以東北側の拡張工事行われる 十八代寶山泰造歿 |
満州事変勃発 | ||
1932 | 昭和七 | 十五代安田源七没 | 十二代樂弘入没(七六才) | ||
1935 | 昭和十 | この頃錦光山商店閉鎖 | |||
1936 | 昭和十一 | 藪内家十三代竹中紹智誕生 | |||
1937 | 昭和十二 | 十七代寶山熊之助(昌平)没(八九才) 二代伊東陶山没(六六才) |
表千家十二代惺斎宗左没 昭和北野大茶の湯開かれる |
支那事変勃発 | |
1938 | 昭和十三 | 十二月六日、八代高橋道八(光晴)〈華中亭道八〉誕生 | 表千家十四代而妙斎宗左誕生 益田鈍翁没 |
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1940 | 昭和十五 | 楠部千之助、粟田神社参道三条通入口角に「神社由緒書舎」を奉納 楠部千之助歿(八一才)楠部陶器貿易工場廃業 藤平正一、通称俣野窯(登記簿上は安田修次郎)を譲り受け製陶 |
利休三百五十回忌 | 奢侈品禁止令 | |
1941 | 昭和十六 | 初代宮永東山没(七三才) 三月六日、六代高橋道八(英光)〈華中亭道八〉没 |
第二次世界大戦勃発(〜四五) | ||
1942 | 昭和十七 | 「企業整備」により京都陶磁器工業組合員は63の企業体に整備統合される | 藪内家十一代竹窓紹智没 | ||
1943 | 昭和十八 | 政府による企業合同により藤平窯業有限会社が生まれる | |||
1944 | 昭和十九 | 八代錦光山誠一郎没(四八才) | 十三代樂惺入没 | 7月 防空法施行 9月 第一次建物疎開により870戸の家屋撤去 |
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1945 | 昭和二十 | 藤平正一、粟田での製陶(粟田最後の登り窯)を終え、以後五条坂にて製陶 | 1月16日午後11時23分頃 B29により京都市東山区馬町辺り空襲される。死者41名。負傷者48名全半壊家屋141戸。被災者総数729名におよぶ。 3月18日 第三次建物疎開。堀川通り西側・京都駅南口付近・御池通り南側・五条通り南側。201999坪約1万戸強制立ち退きさせらえる。二間(3.6m)幅の五条通りがこの疎開で60m幅に。五条坂は1261戸が強制疎開。町の半分が崩壊。 |
武者小路千家十一代不徹斎宗守没 | 1月 第二次建物疎開により256戸疎開 ポツダム宣言 終戦 |
1953 | 昭和二八 | 京都陶磁器合資会社倒産 | 武者小路千家九代聴松宗守没 | ||
1954 | 昭和二九 | 河村蜻山、鎌倉に移り、築窯 | |||
1959 | 昭和三四 | 三月二日 五条大橋竣工、 五代清水六兵衛没(八五才) |
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1962 | 昭和三七 | 楠部彌弌、芸術院会員となる | 山科に清水焼団地構想実現化 | ||
1963 | 昭和三八 | 富本憲吉没(七七才) | |||
1964 | 昭和三九 | 裏千家十四代淡々斎宗室没 | |||
1966 | 昭和四一 | 河井寛次郎没(七七才) | |||
1967 | 昭和四二 | 河村蜻山没 | |||
1969 | 昭和四四 | 楠部彌弌、京都市文化功労者となる | |||
1970 | 昭和四五 | 三代伊東陶山歿(七十才) | 万国博覧会(大阪)開催 | ||
1971 | 昭和四六 | 藤平正一没 | 京都府公害防止条例公布。登り窯の使用が規制される | ||
1978 | 昭和五三 | 楠部彌弌、文化勲章受章 三代安田喜三郎没(八六才) |
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1979 | 昭和五四 | 表千家十三代即中斎宗左没 藪内家十二代竹風紹智没 |
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1980 | 昭和五五 | 四月十七日、六代清水六兵衛没(八十才) 十四代樂覚入没(六一才) |
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1982 | 昭和五七 | 十九代寶山泰之助(高臺)没(七五才) | |||
1910 | 昭和五八 | 一月二六日、七代高橋道八(光一)〈華中亭道八〉誕生 | |||
1984 | 昭和五九 | 楠部彌弌没(八七才)従三位に叙せられ、銀杯を下賜される | |||
昭和六十 | 三月三十日 「清水焼発祥之地五条坂」記念碑除幕(揮毫、七代清水六兵衛氏) | ||||
1989 | 平成一 | 十一月十八日「粟田焼発祥之地」碑建立並びに同記念図録発刊 | |||
平成 | 「粟田焼発祥之地」碑建立並びに同記念図録発刊に尽力した粟田焼研究家、小川金三没 | ||||
1990 | 平成二 | 利休四百回忌 | |||
1999 | 平成十一 | 四代安田嘉徳没(七三才) | 裏千家十五代家元夫人千 登三子没(浄光妙登大姉) 武者小路千家十代有隣斎宗守没 |
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2000 | 平成十二 | ||||
2001 | 平成十三 | ||||
2002 | 平成十四 | ||||
2003 | 平成十五 | 並河靖之七宝記念館開館 | 裏千家十六代坐忘齋家元家元継承 裏千家擔泉齋月澗宗晃居士、伊住宗晃宗匠没 |
『松屋会記』・・・・・・・・・・松屋久政、久好、久重三代にわたる会記。1533年(天文二)より書き始められる。
『天王寺屋会記』・・・・・・津田宗達、宗及、宗凡三代にわたる会記。1548年(天文十七)より書き始められる。
『隔冥記』・・・・・・・・・・・金閣寺の住職、鳳林承章が1635年(寛永十二)〜1668年(寛文八)までの間書き続けた日記
『三菩提院御記』・・・・・・奈良春日社の宮司、水谷川忠麿が、真敬法親王の日記をこう名付け、茶の湯と焼き物関係の記事を抄出しては翻刻し、『日本の茶道』に連載をしたもの。
真敬法親王・・・・・・・・・・後水尾院の第十三皇子で、奈良の一乗院門跡
『一乗主人日次記』・・・・『三菩提院御記』の別称
『槐記』・・・・・・・・・・・・・近衛家当主家熈(いえひろ)の述懐を侍医山科道安が記録したもので、1724年(享保九)書き始められる。
主な参考文献
『京焼百年の歩み』 (財)京都陶磁器協会
『茶の湯と京焼T仁清・乾山・古清水』 茶道資料館
『茶の湯と京焼U仁阿弥・保全を中心に』 茶道資料館
『明治の京焼』 京都府総合資料館
『茶の湯ーにほんの心』展 京都文化博物館・京都新聞社
『野々村仁清展』 石川県立美術館・MOA美術館
『国宝 仁清の謎』 岡佳子著 角川叢書
『チャート茶道史』 谷端昭夫著 淡交社
『乾山 幽邃と風雅の世界』
MIHO MUSEUM